【デジタル通貨を哲学する Vol2】テクノロジーと公平性。ブロックチェーンがもたらす「安心社会」
こんにちは。「デジタル決済の未来をツクル」ディーカレットDCPのハナエです。
デジタル通貨やデジタル社会を哲学の視点から紐解く本シリーズ。前回は哲学や思想の観点から見たお金や信用とは何なのか。朱喜哲(チュ・ヒチョル)さんの研究テーマであるELSI(エルシー:Ethical, Legal and Social Issues=倫理的・法的・社会的課題)とあわせて伺いました。
それに続く今回のテーマは、「ユニバーサルでフェアな取引」です。
前回までの記事 ▷【デジタル通貨を哲学する Vol.1】思想史から見るお金と信用。そしてELSI
キャズムを超える相乗効果とは?
朱 喜哲(以下、朱):円などの法定通貨を持ち、それを使うということは、国家にベットし、国家を信用するということです。しかし、もしかしたら今後国家がその信用に答えてくれないかもしれない時代に向かっていくのではないかと感じています。
Apple、Googleといったメガテック企業は、国家以上に多くのデータを持っています。私たちも国家よりあるいはそうした企業に信用や忠誠心を抱く時代になっていくということも想像できるかもしれません。
そうしたなか、例えば独占禁止法をめぐるApple社への訴訟など、欧米では企業の倫理をめぐるさまざまな対立が起きています。日本企業にとっても自分たちのEthics、つまり倫理的な観点をしっかり言葉にして発信するのは非常に大切です。倫理的な観点から新しい価値を打ち出せれば、それはとても大きなインパクトになります。
ただ、現状のブロックチェーンやデジタル通貨には、何かキャズム(普及が広がる手前にある深い溝)を超えきれない部分があるのではないないかと。時田さんはそういった点でどんな突破口があるとお考えですか?
時田一広(以下、時田):それはインターネットに似た部分があるかもしれません。私がIIJ(インターネットイニシアティブ)に入社した1995年時点では、インターネットがここまで普及するとは予測していませんでした。それがキャズムを超えて社会に浸透したのは、いくつかのきっかけがあったからです。
半導体や通信技術が飛躍的に進化し、デジタルコンテンツも多様化したことで、最初はホームページを見るためだけのものだったインターネットが、ECサイトで買い物をしたり、音楽や動画も楽しめるようになり、多くの人が普段使いで”インターネットを利用するように変化してきました。
朱:“普段使い”というのがポイントですね。
時田:そうなったことで、社会全体が参加するようになりました。私たちが今当たり前のようにインターネットを使っているのは、そうした複数のきっかけによる相乗効果があったからだと思います。
この点はブロックチェーンの普及にも参考になると思います。ブロックチェーンの技術や概念をいくら語ったところで、結局は使う人ありきです。「必要は説明の母なり」という言葉がありますが、必要とされるものがなければ社会全体に本当の意味で浸透することはありません。それがまだ足りない部分だと感じています。
公平性とテクノロジーユートピアの課題
後藤康夫(以下、後藤):「公平性」というテーマに戻ると、インターネットはパブリックでユニバーサルなものだからこそキャズムを超えたという側面もあるのかなと。パブリック、ユニバーサルという特性がどうフェアネスにつながるのか。哲学の観点から朱さんはどう考えていますか?
朱:前回の時田さんのお話で面白いと思ったのが、パブリック、プライベートという言葉の使い方です。経済やインターネット以前の通信という点で考えると、企業・個人だけでなく、国家もまた特定の利益を守るプライベートな存在だと。これはとても示唆に富んだ視点だと思いました。
西洋の政治哲学の用語法では、「Fairness(公平)」とは、いわば天秤が釣り合った状態です。そのバランスをとる母体を、哲学者はこれまで国家という枠組みで考えてきました。あくまで国家を足がかりに、それを拡張したのが18世紀の哲学者イマヌエル・カントが提唱した「世界共和国」という構想や、現在の欧州連合(EU)のような国家連合です。
朱:でも、いわゆる西洋近代国家が本当にパブリック、ユニバーサルなものかというと、実はそうではないわけかもしれないわけです。この点を踏まえ、ブロックチェーンなどのデジタル技術が何らかの価値を生み出しているかもしれないと考えると、それは新しいフェアネス、よりよい意味で対象をユニバーサルに広げたフェアネス2.0のようなものになるかもしれません。
ただ哲学者として一歩立ち止まって考えると、これは一種のテクノロジーユートピアの構想です。そこには「デジタルデバイド」のように、全員がテクノロジーの恩恵に与れるのかという問題があるかもしれませんし、サービスを利用できる人とできない人の間で格差が生じることもあり得るでしょう。ユートピアの裏面としてのディストピアについてもよくよく考える必要があります。
こうした論点を含めてバランスをとり、再配分する主体となるのは誰なのか。国家というエージェントに変わり得る主体を考えることができるのか。よりパブリックでユニバーサルな社会を構想するとして、誰がその役割を担う可能性があるのか。哲学者としても一市民としても、注視せざるをえません。
テクノロジーがもたらすフェアネス。積極的な無関心
時田:その点は難しいですね。もしかすると答えがないかもしれません。国家はグローバル視点で見ればプライベートな側面がありますが、その国家が提供しているサービスは、その国内ではパブリックなものです。
例えば国が提供するライフラインを利用できる範囲は、民間企業の電子マネーのようなサービスが使える範囲より広いわけですが、これはあくまで範囲としての話です。パブリックであれ、プライベートであれ運営者は提供サービス内の利用者に対してフェアなバランスを提供する必要があります。
時田:また、テクノロジーによって不正を防ぎ、フェアネスを実現することは可能です。身近なところで言えば、多くの企業には交通費の申請・清算に細かいルールがあります。でも、事前にフェアな手配をして自動清算できるようになれば、煩わしいルールそのものが必要なくなります。
現状はテクノロジーが未熟だからルールを不便にすることで公平性を保つような方法も取られていますが、仕組みそのものを変えることで便利さを進化させながら、不正を仕組みでブロックする。デジタル通貨はそんなことができるサービスになればいいなと。
朱:これは私の本『〈公正〉を乗りこなす』の中にも書いたことなのですが、フェアネスの維持・実現にとって大事なのは、思いやりや優しさ、配慮ではなく、実は“積極的な無関心”なんですね。
西洋のリベラリズムは自由を大切にしますが、この自由はただ何でもできるということではありません。むしろ国家権力や力を持った他者から介入されないという観点からの自由です。
同じく西洋リベラリズムで重要とされる寛容も、単純な思いやり、優しさではありません。むしろ積極的な無関心。凄惨な宗教対立の歴史から学んで、相手の内面に立ち入ったり、「よかれと思って…」ということを勝手にしたりしないことが大切だと考えられています。
朱:つまり、テクノロジーで自動的に不正を防ぐということは、自由で寛容に律するということです。
フェアネスの実現という観点では、サービス運営者の善意や私たち自身の順法精神、おせっかいな国家に頼るのではなく、システム上に担保されたインフラストラクチャーによって、バランスが取り続けられるようにする、というのはひとつのあり得る構想かもしれません。
イノベーションにブレーキをかける国家
時田:先ほど、ユニバーサルな社会では誰が再配分するのかという話がありました。例えば被災地や紛争地への支援は、民間だけでやろうとすると役割に限界があったり、分担に問題が生じたり、お互い見合ってしまったり。スムーズにいきません。そうした点でやはり社会を調整する国家の存在は不可欠なのだと思います。
とはいえ、その国家の力は相対的に落ちてきていて、部分的にはグローバル企業の方が強くなっています。こうした国と企業の関係は歴史上初めてなのではないでしょうか?
朱:そうですね、かつては大英帝国と東インド会社など、国家と国策企業が融合するかたちで力を強めていったのですが、今は企業が国家以上にグローバルなサービスを提供し、膨大なデータを保有しています。
そうしたなか、先ほど話したAppleの訴訟のように、国が企業に手綱をつけようとする動きがあります。ヨーロッパでは2018年にGDPR(EU一般データ保護規則)が施行され、日本の法改正にも影響を与えました。民間のテクノロジーに対し、国がこれほどまでに敵対的なかたちで「待った」をかけた事例は歴史上なかったと思います。
ちなみに今、イギリスやアメリカでは顔認証技術にブレーキをかける動きもあります。欧米では肌の色や外見が人種差別につながりやすく、顔認証は差別を助長するという考え方からです。
時田:規制という点では、AIも今まさにそうですよね。国が民間のイノベーションにここまでブレーキをかけるのは、歴史的に初めてのことではないかと思います。
朱:そうですね。ただデータビジネス以外の分野まで広げてみると、1990年のヒトゲノム計画という事例があります。「人間のクローンは技術的には可能だけど、生命倫理や宗教の観点からやめておこう」という考え方ですね。日本でも人クローン胚や臓器移植への規制がなされました。実はELSIはここから生まれた概念です。
一方、データビジネスの分野はある意味楽観的というか、「テクノロジーはイノベイティブなものだから、どんどん広げればいい」という発想を、とりわけインターネット以降みんなが持ち続けてきたように思います。
そのデータビジネスが今、バイオテクノロジーと同様に高い侵襲性を持ち始め、人々の生活基盤を左右するようになってきました。そのブレーキ役の責任なども含め、私たちがあるべき社会像を描き、Ethics(倫理)を訴え、どう突破していくのか。今ほど問われる時代はないと思います。
命がけの跳躍のリスクと「安心社会」
後藤:ありがとうございます。民間企業が国家を超えてサービスを広げているという逆転現象のなか、デジタル社会での取引においてマルクスが言うところの「命がけの跳躍」がどうやったら市民権を得られるのでしょうか?テクノロジーだけに限らず、ジャンプする安心感を得るには何が必要なのでしょうか?
時田:それはまさにアナログの世界でもある話ですね。例えば多くの企業間(BtoB)取引は、取引実績のある顧客から紹介された企業に対し、「これくらいなら大丈夫だろう」と、ある金額の取引をする。その金額が支払われれば実績となり「次もいいですよ」と取引が繰り返されお互いの信用が積み上がり広がって行きます。
ある意味で非常にローテクノロジーなのですが、これまでは曖昧さを信用させる必要があったのだと思います。
その点、デジタルになれば、アナログの時のような方法は使えません。これを逆手に取れば、テクノロジーを活用してフェアで便利な仕組みを新しく構築できるチャンスであり、デジタルの方がかえってシンプルに、安全で効率的な取引ができるようになると思います。
朱:後藤さんの言う「どうやったら」は大事な観点だと思います。そこで触れたいのが、世界的にも著名な社会心理学者である山岸俊男の研究です。
山岸俊男は、西洋社会における「信頼」は、日本社会における「信頼」とは違うとしています。西洋社会は流動性が高く、人の動きや入れ替わりが激しい。そこでの信頼は、個人に対する属人的な信頼だと。
それに対して日本型の信頼は「安心」。西洋に比べて日本は流動性が低い社会で、誰も足抜けできないし、逃げられない。そのなかでとりあえず任せておこうという日本型の信頼が「安心」なのだと。山岸はそう指摘しています。
朱:さらに山岸の研究で興味深いのは、個人を見極める必要がある信頼社会より、安心社会の方が効率がいいと指摘している点なのですが、しかし、それは現代の日本のように一度流動化が進めば崩壊し、それにかわる「信頼」も確立されてない社会の脆弱性という問題に直面するわけです。この整理を念頭に、時田さんの話を伺うと、これからのあるべき分散型デジタル社会とはむしろ安心社会に近いのかなとも思いました。
みんなに情報が共有され、誰も足抜けできないインフラストラクチャーをつくれば、新しいかたちの安心社会ができるかもしれません。そんな構想も考えられるのではないかという可能性を感じました。ただ同時に、そこは本当に「みんな」なのかという批判的な観点も忘れてはいけないでしょう。
後藤:確かに、これまで一対一でやらなければいけなかった与信を分散化し、それによって何かが得られるとすれば、それは「安心」というキーワードに近いもののような気がします。
次回は、朱さんの考える「デジタル通貨による現代の物々交換」というテーマを掘り下げていきたいと思います!